#IKA03 桜

花見をするなら雨の日の夜に限る。

 

真っ暗な公園の、街灯に照らされた桜が

枝をしならせて僕の頭上を覆う。

それは大きな手の様だ。

この暗闇から守ってくれるような。

 

風に吹かれて散った花弁が

ビニール傘に落ちて貼り付く。

普段の自分なら神経に障るだろう

この感触も今なら許せてしまう。

 

雨も、桜も、本当は嫌いだ。

それが、こんな静かな夜に出会したと言うだけで

僕の感性を簡単に裏切ってしまう。

こんな惰性が、この世界を堕落させたのだ。

 

日が昇り、この雨が止めば

落ちた花弁が血溜まりの様に

そこかしこに広がるのだろう。

やがてそれは、乾いた風に運ばれて

過ぎ去って行く。

 

僕は少し見上げて、枝越しに暗い空を見た。

霞んだ視界の中で咲き乱れる桜は

まるで蝶の群れの様だった。

#MKA02 シナリオ

寒気がするほど優しい手招きに呼ばれたんだ。

冷え切った両足を引きずって

泣きそうになりながら

どうしても抗えなかったんだ、どうしても。

 

近づくほどに、まるで空気が抜けるように

虚しくて、億劫で、もう

その手が抱いてくれないなら

俺は一体、何の為に。

 

だから嫌だったんだ。

大嫌いだって思う事で自分の形を保っていたんだ。

大嫌いだって思う自分を支えにして。

憎んで欲しかったんだ。

それがこんなにも罪深いとは知らずに。

 

最初から全て分かっていたんだ。

もう引き返せない事も

もう引き返す積りも無かった事も。

 

君の憎悪に潰されるまで

シナリオは変わらない。

変わったのは自分だった。

俺は君の事をあまりにも知らな過ぎたんだ。

#IKA02 月

いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

一瞬、ここは何処かと焦ったが

窓外を流れるオレンジ色の景色を見て溜息を吐く。

 

左肩の温もりに視線を遣ると

目を瞑った彼が寄り掛かっていた。

おそらく意識はある。

けれど、身を起こす気は無いらしい。

 

再び窓外に目を向けると、橋を渡るところだった。

景色はひらけて、水面の反射が美しかった。

 

このまま、どこまでも行けそうな気がする。

そう嘯く心に小さな針が刺さる。

彼とふたりでなら何も怖くない。

僕は彼がいちばん怖い。

 

橋を渡り終え、ビルの間へと吸い込まれた。

少し暗くなった車内に明かりが点く。

白くなった視界からはドライアイスの匂いがした。

 

左肩はまだ温かい。

夜の足音を聞きながら、ぼんやりと瞼を重くする。

瞼の裏には月が見えた。

#MKA01 ひなどり

飛べないひなどりの振りをして

君が運ぶ不快感を呑み込む。

それは炭のように苦く、泪を甘くした。

 

君はけして出て行けとは言わない。

俺が再び口を開くのを待っている。

いつか全てに飽きて、離れて行くその日まで。

 

玉虫色の心臓を見せても

斑模様の肺を見せても

君は信じない。

ひなどりが君の為に産まれた事を。

 

君は信じない。

ひなどりは君の所為で生まれたんだと。

 

いつか全てを諦めて、離れて行くその日まで

真っ赤な喉の奥を震わせて待っている。

炭のように苦い君の不安を。

 

玉虫色の心臓を抱いて

斑模様の肺を抱えて

甘い泪が伝う窓辺から俺はまだ動けない。

 

君が諦めるその日まで、俺は

羽根よりも軽い約束を守るのだろう。

飛べないひなどりの振りをして。

#IKA01 改札

駅へ向かう坂道のガードレールから下を覗くと、中学校の校舎が見える。

防錆塗装の剥がれた体育倉庫の影に幽霊が居た。

僕はその、陸上部員たちを見つめる窶れた男から目を逸らす。

彼は僕の隣で楽しそうに手を振った。

 

住宅と林に挟まれた生活道路は、午後になると木漏れ日の心地良い散歩道になる。

シャッターの開いた空のガレージの奥に幽霊が居た。

僕はその、煤けた長い髪で顔を隠す少女から目を逸らす。

彼は僕の隣で嬉しそうに手を振った。

 

自動車教習所の側にある捻れた交差点では、停止線を守る車はひとつも見当たらない。

コンビニの室外機と灰皿の間に幽霊が居た。

僕はその、自己犠牲の成れの果てに立つ老人から目を逸らす。

彼は僕の隣で可笑しそうに手を振った。

 

駅に近づくと、自動改札機の電子音が聞こえてくる。

街は生きた人々が行き交わなければ死んでしまう。

彼は親しげに顔を寄せて、不幸な話をしたがる。

僕は彼が期待するような信心深さは持ち合わせていない。

 

駅員室と券売機の奥の暗がりで、学生服の二人が抱き合っていた。

「かわいそうだね」と呟く彼の声に笑みを浮かべ、

僕は黙って改札を通り抜けた。

#MKA00 火傷

長距離走の授業でよく見る光景。

スタートはだらだらと緩慢に

何故走らねばならないのかと嘆いてみせる。

サボったところで結局はやる事も無く

焚火の中で崩れていく時間を眺めるだけ。

灰になったそれを振り撒きながら

帰り道をだらだらと緩慢に

明日の授業は何だったかと考えてみせる。

 

それでもゴールが見えてくれば

自然と足は前へ進もうとするもので。

最後の100メートルくらいは真面目に

走ってやろうという気にもさせられる訳で。

終わりがあるのは素晴らしい。

多分、俺もそう思っていた。

 

永遠なんて無いのが当たり前で

だからこそ軽率に、来る保証の無い「いつか」を転がして

嘘にすらならない戯言を紡いで

今もまだ時間を燃やしている。

水槽のようなこの部屋で

終わりまでの余白を塗り潰そうとしている。

 

そんな俺に、彼は冷たい一瞥を呉れる。

この寒気が少しでも長く、永く続けと祈った。

#IKA00 道連れ

小さな雨粒ひとつの中に、僕らの世界は集約されていた。

知る由もない住人はただ無邪気に空を見上げ

息を吐く度に自尊心を傷付け合った。

ただ空を見上げ、この傷は意味のあるものだと信じた。

 

雨粒は少しずつ千切れて、空へと吸い込まれていく。

まばたきに紛れて、もう目で追うことは出来ない。

どこへ行ってしまったのか、もう探すことも出来ない。

 

千切れる毎に、離れる毎に、僕の感情が剥がれていく。

風に塞がれた両耳から、灰色の記憶が溢れていく。

全身の血管が裏返るような焦燥に、僕は目を見開いた。

そこに見付けた彼の腕を呑むように掴んだ。

 

薄茶色の瞳が僕に問いかける、悲しげに。

怖いのかい?寂しいのかい?

腕の組織を潰す勢いで、僕は両手に力を込めた。

彼の腕を通して感覚が戻ってくるようだった。

 

小さな雨粒ひとつの中で、僕らの世界が再構築される。

欺瞞に埋もれた真実の、贋作だ。

乾いた唇が幼い子供を嗜めるように

ひどく消極的な覚悟で僕を知りたがる彼に告げる。

 

あなたが憎い。

 

雨粒は砂の上に落ちて砕けた。